<続>脱思考停止の教育                         ~遂行中断性と「表現の場」としての共有空間~

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遂行から遂行中断に至ってしまう感覚

高校の現場では、「校務」とされる仕事があり、それは単に授業だけに携わっていさえすれば良いというものではない。生徒の生活面に関わるHRの運営や学校行事を遂行するための分掌の任務や、部活動顧問などに任務分担される。学習指導要領や教育行政の要請を受けたカリキュラムなどは、教科担当者の視点だけでなく担任としての視点も持った上で、教育全般に目を向けた実施内容に対しての議論することを求められたりする。
この「校務」の中には、どう考えても「教育現場に馴染まない」という仕事が指示されたり、求められたりする場合がある。同僚の動きを意識しようがしまいが、場の空気に従わざるを得ない中で「校務」を「遂行」していると感じる場面はないだろうか?

「遂行中断性」とは、教育学者の小玉重夫の『学力幻想』(ちくま新書2013)や論文(※1)からの受け売りである。学者の引用による権威主義に陥らないためにも、彼らの言葉・概念を関知するに至った現在の状況を、記録、報告しておきたい。

美術教師の言語活動と媒体

2023年度発行の機関誌「創造」から紙媒体での印刷が取りやめとなり、この原稿が載る2024年度版もPDFの形で、ネットを通じて共有されることになる。
産業界のDXを取り上げるまでもなく、日常の生活に行き渡るWebシステムは、フィジカルな制約を容赦なく削ぎ落としていき、今や書類の保管は電子ファイル化がすすみ、紙媒体情報は完膚なきものにされているのかもしれない。
それでもその流れに抗することがどんな意味を放つのか、論考する。

研究会の機関誌の役割

文章を記述することは、情報を残す行為と言い換えることができる。まさにICTはその受け皿として存在しているとことは間違いない。では、何のために情報が必要で残す必要があるのだろう?
プリミティブに考えると、全ての情報は記号でしかない。その記号が二次的、三次的な意味をもたらす「変化」を人間が求めていると言えるのかもしれない。この「変化」については、心地よいものあれば、不快なものも存在する。(現に、ここまでの記述で、「よくわからん」とか「難解・・」とか感じた方もいるのではと想像する。一方で「面白いかも・・」と感じてくれる人がいることを願っていたりもする。)
記号論を踏まえて考えるなら、様々な想像力を引き立てる刺激の大系が文章・文字情報の中には存在している。意味世界の広がりは、大方、人間のみがキャッチしたり理解するものだと考えられてきたが、AIの存在により、意味世界もその概念を与えた人間の世界の言語体系によって成り立っているだけだということが分かる。情報に対しての無差別な扱いは、AIこそが得意とし、そのために「危険なAI」という論調も散見される。
話が脇道にそれたが、文章を記述する目的は、「伝えるため」、引いては「受け止めてもらうため」にという意思が前提なって他者を意識した行為だと言えるのだ。その上で、情報を「残す」という意味をもう少し掘り下げておこう。
情報を「残す」意味としては、価値があるものを保存して活用するとか、直接アクセスできない人や場所に情報を保持し共有できるといった可能性が期待されていると考えられる。
着目すべきは、この「保持し共有する」ことについてだ。まさに、研究会の機関誌に求められることである。研究会の役割のことも考えれば、その場に、クリティカルな(批判的な)言語空間が求められている。

部展記録集を残すことへのこだわり

私は、数年前より美術部記録集を残すことにこだわってきた。
切っ掛けは、2018年、勤務校地元のギャラリー、岩田商店のオーナーから部展開催の機会をもらったこと。  
岩田商店(いなべ市北勢町阿下喜)は、単に白い壁が囲むようにあるギャラリーではない。以前はトタンなどの金物を扱う商店だった空き家をリノベーションして開業したスペースで、通りに面したガラス戸からは時に直射日光が差し込んだり、コンクリートに塗装された床とは別に、靴を脱いで一段上がる縁台と戸を外した板張り間が隣接している。そこには更に小さな床の間も付いている。矩形の絵画を額に入れて単純に並べるだけでは、空間に負けてしまうような場所なのだ。
その頃の美術部員たちは、前年に名古屋を中心に行われたあいちトリエンナーレを部の活動として見に行っていた。おそらくはその年齢になるまで意識しなかったであろう「インスタレーション」といった展示方法など、いくつかを体感したことになる。その影響を受けてか、部展の誘いをもらったことを伝え、会場に足を運ばせると見る見る積極的に取り組み始めることになった。
テーマの設定から空間の割り振りまで、それぞれのプランを突き合わせながら進めていく必要があり、その段取りの重要性など顧問が伝え、部員たちは目を輝かせて自分たちの作品を必死になって制作していった。
私は、伴走しながら、「この記録を残す意義は大きい」と、記録集を作る決意を固めていった。
美術部の記録集については、その昔、津西高校の2001年に三重県立美術館県民ギャラリー行われた第8回絵画の流れ展の記録集(この研究会に縁の方が多数)を所持していた(おそらく、当時、本研究会の参加者全員に配布されたもの)。「やわらかな結晶」と題されたその冊子は、白黒印刷で中綴じ、カバー型表紙が重ねられ、趣のあるものである。

(発行表記を見ると、津西高校美術部/生徒会/同窓会が発行しており、1200部印刷と表記。著作権は津西高校とすることから相当な金額が支払われたのだろう)
折に触れ読み返し、かなり高邁な文が多く、「大義を持ってこの記録集は残された」と感じた。そして次に、「今だったら、この美術部らしいカラー刷りの伸びやかな記録集ができるかもしれない」と意を決したのだった。部員全員から、ある程度の分量の原稿提出を求めたのも、この記録集がお手本としてあったことが大きい。
「自らが制作してきた作品の記録を残す」ことの重要性については、多くの美術教師が生徒たちに伝え続けていることではないだろうか? 私自身そうなのであるが、かつて学んだ美術教師からそうするようにと伝えられ、自からそうしてきたことで得た「確信」を、次の世代に伝えていく行為であると思う。(美術教育の多く場面では、この「美術教師自身が確信すること」をどう伝えていくかにかかっているのではないだろうか?)
ただ、記録集制作当初、その記録を残すことで得られるものが何なのか具体的に示唆する言葉を持ち合わせてはいなかったように思う。「記録を残す」ことの中に、写真だけで記録するのではではなく、文章・言葉を添えて残すことがなぜ必要なのかと。辿り着いた答えは、先にも書いた通り、周りや自分の未来に向けて「晒す」あるいは「問う」ことだ。
部員たちに文章を書かせながら、自分も考察するなかで得たその答えは、「自分がそこに居た存在証明」的なものとして、未来の自分を励ますものになるということだ。私が部員たちに残してきた記録集でやろうとしてきたことは、そんなことなのだろうと思う。

今年度途中で始まった「遠隔授業」

一方、このような「記録集を紡ぐ」作業とは対極にあるような報告も残しておきたい。
三重県教委は、教員が使うPCの更新にともない、素組織のグループウェアとしてTeams(Microsoft社)使用していくことを決めた(2024年1月導入)。それまでに使われてきたグループウェアのガルーン(サイボーズ社)(おそらく2002年頃県立学校導入)や、デスクネッツ(カゴヤ・ジャパン社)(おそらく2012年県立学校導入)といったグループウェアと同じように「そのうち慣れるだろう」というようなITジャイアンツと同じスタンスをとっている。しかし、そのようなスタンスで、教育行政を進めていいのだろうか?
コストカット(TeamsはMicrosoft Office製品と抱き合わせグループウェア)で、削がれている教育現場の生産性にもっと気づくべきである。そのことに無自覚であるから、三重県下のICT活用教育の導入に無批判で、文科省からの上意下達的の教育行政しか行えないのだと言える。どの場面で生徒、保護者、教員を大切にしていく視点を持つべきで、そのためにどこにお金を使うべきか、意識的であるべきで、その基盤がない上に進んでいる「GIGAスクール構想」でしかない。
まず、ICTを活用するにしても、手触りを基盤とするする教育を構想していくべきなのだ。この「手触りを重視しない教育」は、単に物理的な手触り無視しているというはなしではない。学習基盤を無視しているという意味で大きな問題をはらむものなのだ。
このような状況の中、2024年度、文科省主導で「遠隔授業」が始まった。
文科省のHPにある「「高等学校教育の在り方ワーキンググループ中間まとめ」を踏まえた制度改正の概要」(※2)に詳しい(画像を載せても文字情報が多くて見づらいので後述脚注リンクから参照を乞う)が、必修教科の「履修」に関わっては、法定授業時間に対してどの程度の出席が必要か、各高等学校の内規で定められ運用されている。この運用規定において、科目履修・習得を望みつつも不登校の状態の生徒に対して、大きな障壁となり、高校必履修科目の履修できず、卒業できない状態(結果的に退学)となっている。そのことへの支援的制度として、2024年度4月よりオンライン授業で出席の補いが可能となった。
方針が打ち出され、制度として決まったのは2月下旬であったようだが、現場に実際に運用を促されるのは、5月頃の校長会からであった。各学校での運用対応策が議論され、「実際の授業を、既存のPCを用い、参加できない生徒にオンライン授業配信する」というものであった。ここで驚くのは、この制度運用に関わって、現場への人的配置や設備的整備は一切行われていない。
私の勤務校では、欠席などが20日を超える生徒が出てきた場合、保護者とともに面談を行い、この「遠隔授業の制度」と「制度」としての出席の扱いや実技教科や定期考査の扱いなどその活用においての注意点を説明し、その上で、この遠隔授業に参加するかどうか確認を行う。必履修科目であるかとか、欠席の程度により「遠隔授業」を選択する生徒は様々だが、進級や卒業が関わる教科については多くの場合、その受講を申し出るようである。
実際に「遠隔授業」やってみて気づくことがとても多い。まず、配信を行うPCを用意するのだが、映像と音声を送るためのアプリを三重県下高校では主にGoogle Meetを使用する。このMeet、配信を管理する教師がカメラを授業開始前の早い段階で起動させても、「入室」する生徒が一定時間接続しないと、配信を停止するしくみになっている。授業の準備や生徒への配慮(遠隔授業受講を周りの生徒に知られたくない)など、できれば授業開始直前にはMeet起動操作をしたくなかった私は、20分も前に起動していた。対象生徒の保護者から、「配信が始まらない!」と苦情をもらう中で分かった事実だった。
考えてみるに、不登校に至る生徒の事情は様々で、決して一様ではない。「周りの生徒の目が気になる」生徒もいれば、「学校に行くこと自体が難しい」生徒もいる。そのような生徒らに対して、既存のいきとどかないオンラインインフラ状況で、「端末」という形で晒されるような形になっていることを、教育行政を行う側の人間は認識すべきである。そして、制度が制度で運用の幅を広げ、制度維持するためのものであって、その枠組みに支援が必要される生徒であっても、追従させている側面が否めない。教育現場においては、今あるパイを最大限活用して運用しようと努力はするが、制度自体が先行するあまり、生徒らへの本当の意味でのケアや、教育現場としての信頼が阻害されるような状況となっているように感じる。
この原稿の執筆段階において、年度末を迎え、対象となる生徒を抱えている私にとっては成績や単位認定を任されているとはいえ、その評価は悩ましく、同様の状況が県下のみならず全国に広がっていることが想像でき、他校での様子など、本研究会としても情報収集し、その評価の取り扱いなど、議論すべきではないかと考えている。

人との対話構造とモノとの対話構造

人間は、自らの存在を認知するために他者の存在を確信し、相互応答などの経験を通じて自身を確信する。同様のことが、モノに置き換えてしても確信を得ることができる。時にそれはメディウム(媒体)を介しての「対話」であったり、「感触」であるのだろう。ベタベタだったりヌルヌルだったりの触覚を通じたバーチャルな「対話」であったりする。そこには、単に触るベクトルだけではなく、モノが触り返すという反作用的感触をキャッチしているのだ。
ICT技術は、そのバーチャルな「対話」を、更にバーチャル化してしまい、タブレットやキーボードなどから等値の反作用を受け止めるだけになるのだ。唯一違う反作用が、視覚情報のみで、その状況の中でしか自己の存在を確かめるしかなくなることになる。
この仮構構造こそが、自己確信を脆弱化させ、「不安定な自己」を形成していく可能性があるのではないかと考える。
タブレット端末でコロナ禍を過ごした中高生の中に、端末のタブレット画面のタッチパネル操作感覚に自信を持って操作できていても、自分を確固として存在を肯定してくれる存在には辿り着けずに、新たな感触を求めようともしない生徒が出てきているように思う。感触は「手触り」とも例えられるが、この手触りの幅が狭いと作品制作「モノとの対話」が進まない。試行錯誤があらぬ方向にどんどん進む可能性もある。

認知科学の視点、スキーマから考える

今井むつみは、認知科学の研究によるスキーマという概念を使いながらこう伝えている。「情報は、情報のままだと知識にならない。」「多くの人々は、母語を何も考えずに使いこなしている。そこには、言語を使いこなせるスキーマが存在していることになる」スキーマの説明は、『学力喪失 認知科学による回復への道筋』(岩波新書2024年)に詳しいのだが、この認知科学の視点で美術教育を見つめる重要性をつくづく感じるのである。
 スキーマのことを端的に伝えるなら、知識が活用できる状態にまでおとしこまれた基本的知識体系ということになるだろう。われわれ美術教師が培ってきたモノとの対話の中にも、明らかにスキーマと位置づけられる認知構造があり、その土台の元でたくさんの美術作品を制作し指導してきたはずだからだ。その過程をあらためて振り返り、われわれが位置づけ直すことで美術教育における探究の道筋か整えられていくのだろうと考える。

総合的活動と技術評価

私の担当する「デザイン技術(学校設定科目)」(文科省は新指導要領で、「デザイン技術」という工業科目名を改め、「デザイン実践」という科目名に変更した。勤務校では、2年次で「デザイン技術」、3年次に「デザイン実践」の科目を開講している)で、グループでデザインワークに取り組む授業を行ってきた。
「デザイン技術の技術はテクニックではなくテクノロジー」として位置づけていくべきだいう私自身の思いからその手法に至った。本来、デザインは、デザイナーという専門家の独壇場ではない。使う人間の感覚を大事にする感覚目線のデザイン開発は、インダストリアルデザ インで一般的だ。グループで目的に即したデザインを共同で取り組む流れは、すでにある「開発(学習)技術」だと考える。

高大接続と観点別評価

この「デザイン技術」の授業でも、また「遠隔授業」でも大きなテーマとなるものに、観点別評価がある。
2019/2020年度発行の「創造」に「観点別の評価」の何が問題であるのか指摘する拙文を載せ、その中で「複数の評価者」の必要性を伝えた。詳細な説明はできなかったが、物理的に難しくとも、意識すべきこととして「評価に当たる複数の目」の必要性は揺らがないはずだ。
観点別評価について、今2024年度、3年制高等学校において完成年度を迎えた。3年間運用を進めてきて、思うことは、高大接続改革の本丸となる現共通テストで重視されるのが思考力・判断力である状況を踏まえるに、三観点である必要があるのかと疑問である。
まず、「評価(=成績)」は、学習期間内(入学から卒業までの期間内)で完結する問題ではない。それぞれの教育機関の出口と入口のところで、接続の基準性、能力評価性を持たない限り、それぞれの機関においての制度定着性が薄くなるのではないだろう。  
特に、観点別評価については、学習者のモチベーションを引き出す仕組みとして、前指導要領から小中学校で導入され、義務教育の中では一定の受容が進んだのかもしれない。一方、高校へは新指導要領において導入された。高校への接続(中学校から高校進学)の段階において、ある程度機能的(内申情報)に取り扱われている側面がある一方で、基本的には5段階評価や学力検査点が重視される。
議論の俎上に載せるべきは、高等学校卒業段階の上位教育機関との接続においてである。観点別評価がどの様に扱われるかは、評価対象者(学習者=生徒)の重要事項であるとともに、評価者(指導者=教師)の責任問題として位置づけられるだろう。その意味から考えるに、理想的とされる観点別評価の意味では、3つある観点が機能的な評価と認知されにくい状況が浮き彫りになっている。就職選考然り、大学入試然りである。

評価されるべき真の観点とは<三観点批判>

評価の三観点は、①知識・技能、②思考力、判断力、表現力、③主体的に学習に取り組む態度、である。単純に見て、③は異質で、当初からそれなりの批判があった。2024年度を迎え、その評価に実際に携わってきて、やはりと言えるものが③の観点である。
白状すると、いまだに③の達成目標を授業で設定することに違和感を感じている。基本的には生徒たちに「ふりかえり」を提出させ、その取り組み姿勢がどうであったのか確認するようにはしてきたが、「果たしてそれ良いのか」という疑念が拭いきれない。
先の「遠隔授業」実施にからむのだが、文科省は「不登校児童生徒が欠席中に行った学習の成果に係る成績評価について(通知)」(※3)と通達し、基本的に出欠席が評価と直結してはならないとしている。考えれば考えるほど、そもそも③があること自体に、評価性が必要なのかという感覚となるのだ。

西岡加名恵の二観点評価の提案

「主体的に学習に取り組む態度」の評価をどう見るか?
西岡加名恵は、研究対象の教育現場のフィールドワークから学習評価方法を研究しているが、その中で得た所感として二観点評価の提案を伝えている。(※4)
 私のように、観点③に真っ向から×を出すものではな く、②の観点「思考力、判断力、表現力」で代用できるという考え方で、その方が、忙しい現場で効率的に学習評価ができるというものだ。
実際、観点別評価で、学期ごとにA、B、Cの評価を通知表かとは別に出力する手間と労力は、以前の成績処理労力の倍に匹敵しているように思う。その意味からも、実際の理念的な意味からも、西岡の「二観点評価提案」は、理想的であるといえる。

頭を使い判断し中断し、考えを記述する行為

前半に書いたことであるが、考えを記述し残す行為は、研究会の存在理由を証明する行為でもある。
我々教員は、常日頃、小難しい話をするわけではない。むしろ、直面する現場の課題に「あ〜でもない、こ〜でもない」と試行錯誤し、なんとか生徒のため、教育のために工夫し教育に携わっており、落ち着いて「思索」する暇さえないのが現状だろう。
だが、時にそれらを丁寧に言語化し、メタ認知と呼べるかどうか分からないが、大状況を踏まえて、日頃の教育の仕事を客観視する必要がある。その事こそが、生徒も教員もすり減らない本来(「持続可能」といってしまうと消極的になるので敢えてこの表現)の学校の在り方に進んでいけるように考える。
美術・工芸は、素材というモノを介在させ、世界を捉え直し、「表現」を追求する世界である。
その「思考メソッド」は、例えハラスメントなどで「思考停止」に追い込まれる場面に遭遇しても、次の曲面で自分の立ち位置を決め、試行錯誤を繰り返し反撃の言葉(時に行動)を発することが可能となるなはずだ。その言葉や行動は、背後で支える「モノ」や「人」により強い力を秘めその事に勇気づけられ、次のステージに進んでいく。
そのために、我々はどこまでもモノと向かい合いその事を言葉を介して他者へのメッセージとしてエールを発信していくべきなのだと考える。
研究会機関誌が単に個人の実践やレポートの集約物としてだけではなく、読んだこと、読まれたことを、次の研究課題として追尾していくような扱い方が問われているし、その形こそが、機関誌「創造」のテーマであるべきだろう。


※1「教育改革における遂行と遂行中断性」小玉重夫<東京大学「教育学研究」第76巻第4号(2009年)>
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoiku/76/4/76_KJ00005983123/_pdf/-char/ja
※2「高等学校教育の在り方ワーキンググループ中間まとめ」を踏まえた制度改正の概要

https://www.mext.go.jp/content/20240213-mxtkoukou01-000033989_5.pdf
※3「不登校児童生徒が欠席中に行った学習の成果に係る成績評価について(通知)」

https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1422155_00002.htm
※4溝上慎一の教育論 動画チャンネルNo286)「主体的に学習に取り組む態度」の評価をどう考えるか?(二観点評価の提案)西岡加名恵先生(京都大学大学院教育学研究科 教授)https://www.youtube.com/watch?v=DhyX9o8eDek